バイヤーにこそ、デザインを
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「家電はなぜこうも煌びやかなのか?」 どの製品も我先にと目立つように化粧されているが、聞けばバイヤーの意向が大きく影響しているという。ある家電メーカーのデザインマネージャーは、出来上がってきたモックアップに光沢感あるテープを貼りながら高級感の演出に腐心するという。バイヤーが求める店頭で目立ち、高級感があり、そして少しでも高く売れるデザインを求めているということなのだろうか。

さてエンドユーザーは、今の家電デザインに満足しているのだろうか? 売上げから判断するのが通例だが、それが本当のユーザー満足度を表しているとはいえない。そもそも家電はすべて”デザイナーがデザインしている”にも関わらず”デザイン家電”なる呼称が生まれた背景には、家電デザインに対する何らかの課題が潜在する証なのではないだろうか。

上写真:各社横並びの典型 (最近の洗濯機はどれもメタボ腹になってきた)
さて家電製品を供給しているプレーヤーには、大きく「メーカー」と「バイヤー(卸、小売)」がある。先の事例で挙げたように、メーカーは少なからずバイヤーを向かざるを得ない状況にある。自社製品をエンドユーザーに届けたくても、まずはバイヤーに受け入れてもらうのが先決だからだ。顧客のことを一番考えているのはメーカー側だとして、バイヤーの選択基準に疑問を呈すこともあるが、販売リスクをしょっているのはバイヤーだ。とすれば主導権はバイヤー側にあるのは自明の理だろう。
飛躍は承知の上で、今の家電デザインを決めているのはバイヤーだといえなくもない。先の話に戻せば、煌びやかな家電製品は、それを作りだすメーカーにあるのではなく、それを選択するバイヤー側にその責任がある。バイヤーにこそ本当のユーザーニーズを捕らえるセンスが必要なのだ。一方、良い悪いは別にして、落ち着いたトーンの製品群をもつメーカーに無印良品がある。彼らがなぜあのようなデザインをしうるのか、それは彼らがバイヤー自身でもあるからだ。

「やっぱり販売チャンネルですよ。無印良品がいい例だと思います。私は無印は日本が作った素晴らしいブランドの1つだと思うんですが、あれは店舗がなければ成立しなかったと思います。~中略~ 無印の店舗では、1から10まで無印の賞品ですから成り立つ。無印の自転車が普通の自転車店に置かれたり、無印の家具が一般の家具店で売られても、だれも買わないと思うんですよね。」
出展元:NIKKEI DESIGN 2008 12月号 坂井直樹のデザイン経営談義

上写真:シンプルなデザインも周りが煌びやかだと不思議と貧相に見える。
さて、無印良品のアドバイザー(著名なデザイナーが集まるコンサルグループ)は「そもそも豊かな生活とはなんなのか?」という議論を積み重ねているという。製品に落ちないものもあるだろうが、本来はこうした議論から、製品デザインがどうあるべきかが展開されるべきだろう。
一般的に企業においては、会社の維持/成長が主題におかれた論旨が展開される。「これは売れるのか?」「売り上げ規模は?」「売れる確証は?」と効率性を極限まで求めるがゆえに雲を掴むような議論が展開されがちだ。しかし、企業も社会の奉仕者の一員である。まずは「どんな生活であるべきか?」が語られてこそ、次に必要な製品の話ができるはずなのだ。昨今、人間中心設計が叫ばれる所以がここにあるが、概して方法論にとどまり本質論に至らないのが常であろう。一方、本質論に至った途端に、企業の構造そのものにまで議論がおよび、結果、思考停止になるのが常で、やはり議論は方法論を主眼に展開されることになる。日々の忙しさに紛れて、このどうしようもない現実についつい目を房見がちに進んでいるのが現実であろう。
あるデザイナーは「我々は、いい生活者であるべき」だという。エンドユーザーのことを考えるのに調査/観察は当然必要なのだが、得られた情報から最終的に何を取捨選択してカタチに落とし込むかはデザイナーの頭の中だ。そんな大事な決定権を持ったデザイナーがどうあるべきかというと”生活者を代弁しうるいい生活者”であるべきなのだという。また、あるデザインプロデューサーは、デザインの最終決定に「自分が欲しいかどうか」「自分がお金を出して買ってもいいか」というのを基準にしていると聞く。当然、自分自身がターゲットでない製品もあるのだが、デザインを客観視する一つの方法なのだろう。
売れる、売れないの前に、どういう生活であるべきか。そんなセンスが供給側にあるべき。
バイヤーにこそ、デザインを。



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