2008年 10月 05日
「目で聴くプレゼン」と「日本文化」
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拙著「感じるプレゼン」に紹介しているプレゼン方法は、耳の聞こえない方でも理解できるようスライドに字幕をのせています(上図)。講演会で聴講者の中に目が見えない方がいない時は、耳が聞こえないことを体験してもらうため「無声プレゼン」を行っています。前述のようにスライドに字幕がついているので内容は理解できます。
聴講者の方々は無声だったはずなのになぜか「プレゼンを”聴いた”」というようにご自分の体験を語ります。プレゼンは途中から前触れもなくいきなり無声にしますが、それまで聴いていた私の声をイメージしながら無声部分を”聴いている”のだといいます。
面白いのはそこから話が広がり、(少し強引ですが)日本の文化との接点を見出したこと。俳句の五・七・五は、情報量は少ないですが、読む側がイメージを膨らまして楽しみます。とするならば「無声プレゼン」も見る側がイメージを膨らまして”聴いている”という感覚を見出す点が共通しているのではないか。あと、スライドの字幕を読むのは非常に集中力を要するといいますが(聴覚障がいを持つ方の気持ちがよくわかる) 不思議なことに、そのうち"読む”行為を放棄し、字幕を”直感的に感じ取る”ように自分の意識を変えたという方もいました。まさしく「感じるプレゼン」の面目躍如といったところですが( ̄ω ̄;) 、残存機能が足りない情報を補完しようとするところに、何か新たな可能性が生まれたということかもしれません。
原研哉の「白」に記述されている空白という概念にも関連を見出すことができます。
『白は時に「空白」を意味する。 ~中略~ この空白は「無」や「エネルギーの不在」ではなく、むしろ未来に充実した中身が満たされるべき「機前の可能性」として示される場合が多く、そのような白の運用はコミュニケーションに強い力を生み出す。空っぽの器には何もはいっていないが、これを無価値と見ず、何かが入る「予兆」と見立てる創造性がエンプティネスに力を与える』
出典元:白 原研哉 著
『日本の「神社」という、人々の信仰の営みを受け入れる空間の中枢は、「代」あるいは「屋代」であるが、これは「空間を抱く」という基本原理からなる。 ~中略~ 四隅の柱が、注連縄で連結されたことで、内側に「何もない空間」が囲われて出来る。何もない空間であるから、ここには何かが入るかもしれないという可能性が生まれる。この「かもしれない」という可能性こそ重要であり、その潜在性に対して手を合わせるという意識の動きが神道の信仰心である』
出典元:白 原研哉 著
「目で聴くプレゼン」と「日本文化」
”足りない”って、不便なことではないのかもしれませんね。
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by isoamu
| 2008-10-05 17:53
| ユニバーサルデザイン