社内であってもフリーランスであるべき
|
先日、ある著名なデザイナーのお話を聞いて、大変感銘を受けた。最近「デザイン部門のコア・コンピタンス(核となる価値)は?」という議論の中にいることが多いが、その際、必ず出てくるキーワードが「可視化」。理解を得やすい価値であるが、それにも増してデザイナーが持ち合わせるべき価値は「いかに本質を捉えられるか」だと再認識させられた。
病院サインの仕事で、そもそも職員の意識改革が必要だとして、職員に身近な荷物の「整理整頓」からはじめさせた。電車のラッピング広告の仕事で、環境に対する影響を危惧し、クライアントを説得し、単なるラッピングデザインではなく、電車の利用を促進させる企画から組み立てていった。地方自治体におけるユニバーサルデザイン(以下UD)推進に対する議論では、「UDを理想論だけで共有するのではなく、そもそも実現困難であることを前提に議論をすべき」と問う。そして「ハードで全て対応するのではなく、人の教育も含めて推進すべき」と説く。
面白いのは、UDの実現を「全てデザイナー(作り手側)に課していること」が、デザイナーの地位を低くしているという主張。例えば「使いにくさ」が全てハード側に原因があるとして、その責を問うたとする。しかし、UDは理想であって現実に万人のニーズを満足させることは不可能。にも関わらず、終わりのない問題点の指摘が続き、結果「それはデザイナーが無能だから」という判断ににつながるのでは?ということ。(少し極端かな)
話を戻します。
上記紹介した事例のように、依頼内容を前提にデザインを進めるのではなく、クライアントのこと、そしてユーザーのこと、環境のことを本当に考えるならば、状況によっては「そもそもデザインを変えるべきではない」ということもありうる。また「デザインをする前にすべきことがある」かもしれない。デザイナーはそこまで熟慮して仕事を進めるべきだという。それが、単なる表面処理屋に留まらないデザイナーの価値だという。
事業の成否に”責任”がある事業者でもなく、製品の性能・品質・納期・コストに”責任”を持つ設計開発部門でもなく、モノ作りの中で唯一、”責任”の無い(いい意味でね)デザイナーが「あるべき姿」「本質」を問わなくて誰が問うのかという。
インハウスデザイナーは、社内の慣習がすっかり染み込み、知らず知らずの内に与えられた状況を問題意識なしに受け入れてしまう傾向があるのではないか。つい与えられたシーズを前提に物事を考えてしまう。会社員としては極めて妥当な思考だが、事業責任、設計製造責任に縛られない状況下にあるデザイナーだからこそ、ニュートラルな思考が保て、「物事の本質」を問えることが出来るのではないか。
社内であっても思考は常にフリーランスでありたい。
「そもそも、どうあるべきか」を考えていきたい。
自戒の念も込めて、そう感じさせられたお話だった。



応援のクリックを!