2007年 05月 27日
聾者と健聴者がともに楽しめる演劇
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目の見えない仲間から紹介された「龍の耳に生きる」大原秋年:著
「耳が不自由な方」と「そうでない方」が一緒に楽しめる演劇のドキュメンタリー本。実は拙著も同じ目的で「プレゼンテーション」について考えており、共感する部分が多かった。
ある日筆者は、自分が主催している芝居に「耳の聞こえない子」がいて、その子に何も伝わっていなかったことに愕然とする。そして、芝居に手話通訳をつけようと考える。
しかし、ある団体からこう指摘される。
「聾唖者(耳の聞こえない方)を招待しようと思い立ったのは、舞台の袖に手話通訳者とただ一人立たせるだけですむだろう。 ~中略~ あなた方は、私たち聾唖者に、自分たちの演技を見てもらいたいのか、それとも、広い舞台の「あっちを見、こっちを見」と首の運動をさせるつもりなのか」 [龍の耳に生きる P24]
そこで、芝居と手話を一体化させる事を思いつく。演技者自身が手話を行う、もしくは手話通訳者が芝居の中に入り込む。
「もともと手話芝居という様式に対する好奇心だけがあった。~中略~ それが文句なしの感動に打たれるようになった ~中略~ 手話通訳を演ずる黒衣が、初めのうち通訳の枠を守っていたのに ~中略~ ついにその枠を破って踊り出た、という感じ- これこそ人間の新しい立体表現だと思った」 [龍の耳に生きる P45]
「手話が巧みに劇の流れに組み込まれ、単なる「説明役」を超えて、劇的表現に効果を添えるような演出」 [龍の耳に生きる P51]
「言語のハードルを越えて、諸外国の人たちにわかってもらえる芝居」 [龍の耳に生きる P51]
「黒衣の手話は芝居のドラマティックなうねりを伝え、演技者の演じる役の感情、深層心理まで受け持っている」 [龍の耳に生きる P51]
単なる「情報保障」という観点から、新しい「表現方法」にまで昇華している点が素晴らしい。これは私の「プレゼン」に対する思いと重なっています。
「聴覚障がいをもつ方への配慮としての「スライド字幕」が特徴であるが、単に「字幕」を入れるだけではなく、話の内容に応じて「フォント」「文字大きさ」「文字位置」「文字色」「文字のアニメーション」を駆使し、感情的、感覚的な「言語化できない要素」も伝えようとしています。聴覚障がいをもつ方との対話から、「均一的にテキストを入れるだけでは伝わらないことがある」ということに気づき、こうした工夫をしましたが、私は「新しい表現方法」になる可能性があると感じています。」
「感じるプレゼン」
聞けば「パントマイム」も 「耳の聞こえない友人との出会い」がきっかけであったようです。そうそう「ウォシュレット」も元々は福祉機器だったものが広く一般にも広がった製品です。
(福祉機器から生まれるユニバーサルデザイン)
このように、障がいを持つ方を起点にしたアプローチは、イノベーションに繋がる有効な手段ではないかと思っています。今度、このアプローチをある障害者支援/コンサルティングをしている方と進めたいと思っています。このブログで随時、紹介していきますのでお楽しみに。
さて、本の内容ですが、このままハッピーエンドに終りません。
この実験的な芝居は新しい表現として評価されながらも、「そもそも手話を理解できる方が少ない(聴覚障がい者全体の15%のみ)」 「3時間以上の芝居中休み無しに手話に集中するのは困難」 そして筆者は新しい表現をするのが目的ではなく、聴覚障がい者を取り巻く今の社会自体に問題を投げかけたいという思いから映画作りに活動を移していきます。そして、映画作りの過程を通じて、目を背けたくなるような事実を紹介していきます。
様々なことを気づかされるのですが、聴覚障がいの方に対する余計な心理的バリアを生んでしまうのではないかと危惧もします。私の周りは本書でいう「聴覚障がい者のエリート」ばかりなので、そう感じるのかも知れません。
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by isoamu
| 2007-05-27 18:06
| インクルーシブデザイン