2010年 10月 11日
国ではなく、グローバルとローカル
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「国ではなく、グローバルとローカルに自分の意識をおく」
私はGarbaが唱えるこの捉え方がとても好きです。私たちの社会は世界規模での相互依存の中にある。身近なものをみても、その原料まで辿れば、果たして自国で自給自足しているものを見つけられるだろうか。今の景況が他国から発せられたことは周知の通り。国単位ではなく世界単位で思考すべし、というのは実質的だ。
同時に私たちの生活は地域の中にある。一見些末なことでも、その積み重ねの上に私たちの生活は成立していることを知る。よって日常と世界とを相互干渉させながら生活できる素養(Global Citizen)が求められる。これこそ現代人に必要な教育だと思うが、今の子供たちは、とかく会社人になることを急かされる。そして親の理屈はこうだ「とりあえずいい大学に入学できれば選択肢が増える」と。実はこの選択する行為自体が、人生の中で常に問われ続ける必須の能力なのだが、この大切な課程を先延ばしにしてしまっている。この結果が今の学校教育の閉塞感に繋がっている。話が逸れた。
時に、私たちは国で人を判断し国で結束しようとする。ナショナリズムを前提にしたメディアとコンペティションは至極当然の観念として生活に定着している。ただ祖国は自己のアイデンティティを構成する要素ではあるが、他と対立するためのものではない。他己を尊重してこそ自己は尊重される。ナショナリズムの起源を辿れば、それは富の維持運用のためだが、それがもたらす国際紛争は未だ途絶えることがない。Garbaが「国ではなく〜」と唱える背景には、このナショナリズムを越えて、個として他国の人と交流することが国際紛争を解決するアプローチだとする意図がある。個同士であれば、分かりあえることができる。
ただ私たちの意識は、簡単に日常生活に埋没する。ここにAdult Educationの可能性があると考える。学ぶことを、手段としてではなく、人として深い喜びをもたらすものとして提供する。この可能性を示唆しているのがホイスコーレンだと思うのである。
by isoamu
| 2010-10-11 06:47
| デンマーク