多様性の理解 Understanding of Diversity
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先日行われた「Bafa Bafa(バファバファ)」は、異文化理解を目的としたトレーニングだ。まず大きく二つにグループに分かれ、それぞれ異なるゲームを行う。一つ目のグループは、カードを交換しあって得点を競い合う。ゲーム中は決められた”合い言葉”のみを使い、母国語と英語は使わない。そして各人それぞれ6段階の階級が設定され、階級が”上”もしくは”同等”でなければカードの交換を仕掛けられないように決められている。もう一つのグループは、ポップな音楽を流し気分を盛り上げ、互いに触れ合い、そして絵を描き合うだけのゲームだ。ルールは特に設定されない。言葉は母国語と英語以外の擬音のようなものを各自自由に創作して話す。そして、とにかく互いに笑い合い、喜びあい、褒め合うことだけを心がける。
この2つのグループは、それぞれ全く異なる文化を持ったコミュニティとして設定されている。一つ目は、ヒエラルキーをもった”競争社会”、二つ目は、自由で陽気な”南国”のイメージだろうか。そして、時折数人を交換留学させる。違うコミュニティに入った自分が、どのように戸惑い、何を感じるかがこのトレーニングの大きなポイントとなる。2回の交換留学を行った後に、それぞれのグループに戻り、他方のコミュニティについて話し合う。

少し反れるが、対話におけるデンマーク人の積極性にはほとほと感心する。International Studentもメンバーに入っているので全員英語で話すのだが、非常に流暢且つテンポよく話す。「諸外国に囲まれた小国だから母国語だけに頼るわけにはいかない」と彼らはいうが、その環境下におけるメリットは以外に大きい。クルクルと言語を変えて話す彼らを見ていると、つい母国を憂いたくなる。
さて、私は”競争社会”にいたのだが、”南国”についての議論がとても愉快。「異なる色の鉛筆を使っていたが、何か階級を現しているのではないか?」「人によって話す言葉が違うが、規則性があるような気がする」「絵が壁に貼り出されていたが、一定以上のイラストが溜まったものに限定するなどルールがあると思う」「人によって、相手のどこを触るか決めているはず」等々。但し、前述のように”南国”には全くルールが存在しない。全く適当にやっている。にも関わらずあり得ない仮説が出てきたのだが、これは”競争社会”における価値観を基準に”南国”を理解しようとしたがために起こったのだ。
さて「多様な価値観を理解し認め合う」とは誰しも理想とするところだが、ひょっとしたら、私たちは決して互いの理解など出来ないのかもしれない。理解したつもりでも、それは自分の尺度で推し量っただけの話で、真に腑に落ちるまでには至らないのではないか。極論すれば、相手を理解するには、その相手自身になるしかない。
本校では生徒間で食事、掃除など日常のタスクを分担する。どのグループにもあるように個々の生活態度によってその貢献に差が生じてくる。ある授業で教官が「国際的な共同関係を構築するには、まず互いを尊重すること」と唱えたのを発端に「(キッチン使用後の後始末の悪さなど)周囲の環境維持に貢献しない者にまで、果たして尊重することができるのか?」また「コミュニティに対する貢献に不公平があったとしても、それでもなお私たちは相手を尊重しなければいけないのか?」という普段の不満が噴出した。「国際紛争とは問題のレベルこそ異なるもののコトの本質はそういうことではないか」という論旨だった。その後、責める方、責められる方が互いに異なる論点で主張し、結果、明瞭な妥協点は見出せなかった。決して互いを理解したとは言いがたい状況だった。ただ対話を持ったというプロセスが、ひとまずその場を収めた。単純に言えば「互いに言いたいことを言い合ったから、とりあえずスッキリした」という収束だった。
真に相手のことは、相手自身にしか分かり得ない。ただ対話による一時の収束は図りえる。本来分かり得ない相互の共生を維持するには、拙速に解決を図るのではなく、互いの主張を共有する”対話の継続”にかかっているのではないか。国際紛争において対話が有効だとする論旨はこうしたところにあると思うのである。そのためには最低限、自ら発信するという姿勢が必要になる。多様な価値観を”理解する”という受動的態度では、互いに察しあい誤解が誤解を生みかねない。”発信する”という能動的態度を継続することが、多様性ある社会に繋がると思うのである。
English Summary
Intercultural Workshop called "Bafa Bafa" made us notice our own stereotype. When we try to understand the different culture, we always tend to measure it along our culture. It means that it is impossible to understand other culture unless we become others. However, the dialog has the great possibility to make us release objections against others. We have to be positive attitude to show our mind to others. It must be better solution to maintain diversity society.