2010年 09月 06日
対話と平等
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”対話 (Dialogue)”を今まで安易に使っていたのかもしれない。”議論 (Discussion)”が特定の議題に対して解決策を求めるに対し、”対話”は、説得ではなく互いの理解を優先し、時間を厭わず理念、哲学にまで至る文脈を扱う。その先にようやく結論を見据える。そして国際紛争を紐解くために有効だとする。
前のホイスコーレンでも数多く”対話”を持ったが、最後に結論がなく物足りなさを感じていた。前職では”結論のない議論は時間の無駄遣い”との強迫観念もあり常に急いていた。小職が講演をさせて頂く際にも結論を用意するのは最低限のマナーだとも思っていた。ただ、パレスチナ問題における”対話”など結論を得るにはほど遠い。紛糾した国際関係における”対話”は永続的であるべきという。そこには結論があるのではなく、互いの理解の上に立った持続維持可能なバランスなのだろう。
さて「Dialogue vs. Discussion」にはBrainstormingと同様な方法論が定義されているが、”対話”の成立のためには”全員が平等”でなければならないとある。
そして「国際文化交流は国際紛争根絶の手段か? 」では異質なものへの恐怖を説くが、文化という背後霊を取り除いた個であれば互いは理解はできるとしている。千利休の茶室にもそれに通ずる理念がある。訪問客をしゃがみこませる「にじり口」は、社会的地位に関係なく全てが平等であって欲しいとの象徴だ。人は背負っているものを脱ぎ捨てなければ平等になれない。
長く生きていれば、それに依って自己を誇示するものだ。誰しも不可侵で安定した自己を持ちたい。平等の上に成り立つ”対話”のためには、丸裸になっても揺れない人格と大義も必要だ。”対話”は自己に対する問いかけでもある。
by isoamu
| 2010-09-06 06:11
| デンマーク