多様性の尊重
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イギリスにいた時に観たTV番組で「チャードル」を来た女性がイギリス社会における差別を訴え識者と対話をもつというものがあった。確かにカジュアルな格好をした群衆の中でのチャードルは否が応でも目に飛び込んでくる。つい訝しい目でみてしまうのも理解出来る。RCAのJuliaさんは「日本で多様性というと、多くが障がい者と高齢者のことを指すがイギリスでは移民問題も大きな関心事」だという。
欧州における民族の多様性は地理的条件も大きく影響している。日本の東京〜博多間が1,010km、東京〜札幌間1,140km。これをコペンハーゲンを起点にして考えるとドイツ、スイス、フランス、オーストリア、チェコ、スロバキア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ベルギー、ポーランドまで届く。彼らにとっての”外国”は目と鼻の先にある地続きの”隣県”なのだ。民族の行き来は日本でいう国内旅行の感覚で起こっている。
日本は単一民族が無意識下にある社会だ。多様性の理解というけれども、普段の生活では決して触れることのない価値観に対して、僕らは自身の価値体系を前提として強引に理解しようとするのではないか。そもそもそれは”理解”などというのはおこがましく、”尊ぶべきもの”なのかもしれない。そして、それらは統合するのではなく、個が尊重されたまま包括されるべきものなのだ。

今就学している「Krogerup Højskole(全写真)」の「Crossing Border」というカリキュラムは、Global Citizenとしての素養を身につけることを目的とする。民族紛争、地球環境などのGlobal Issueを、多様な国からの生徒同士でディベートさせる。そしてデンマーク国内のNGOとSustainable Living Communityの訪問、海外では中東諸国のNGO訪問などを直に見る研修旅行が提供される。様々な国からくる学生の多様な価値観は、具体的なIssueを論議する時により尖鋭化するのではないかと期待している。日本では感じられなかった民族の多様性は、私にどういう視点を与えてくれるのか。

「世界を変えるデザイン」という展示会が日本で話題になったときく。ただそれは必要なことだとは分かっていても、自分にそれを判断する規範がないことに気づく。端的にいうと腑に落ちていない。イスラエルの学生から「Peaceful」という言葉が頻発する。パレスチナ問題を抱える彼らからすれば自然なことなのだろうが、平和な日本社会においては多少恥ずかしさを伴う言葉でもある。こうした日本の価値観の中で育った私が、Global Issueを考える上での規範(腑に落ちるもの)を構築できるのか。
また駄文を綴ります。