2010年 07月 15日
若いデザイナーがユニバーサルデザインに興味がない理由
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RCA Helen Hamlyn CentreのJulia Cassimさんとの対話の中で最も印象的だったのが「ユニバーサルデザインに対して日本の若いデザイナーのマインドがかなりフラットになっている」というものだった。Juliaさんは日本の滞在期間も長く、そして日本のデザイン界にも多くのネットワークをお持ちの方だ。こちらの事情をよく存じておられる。
以前私がある市民講座に招聘された際「なぜ私なのか?」と主催者に伺ったところ「UD関連の講演者は、多くの場合大学教授か自治体の共生社会推進担当で、比較的年齢層が高く、ともすれば学術的、学際的になりがち。今回の一般市民向けには合わないと考え、受講者と年齢層が近く平易な内容の講演ができる方を探した結果」だという。学術的、学際的には自信のない私にもこんな存在価値があるのかと歓心するのと同時に、確かに教授や自治体ともなれば、あまり平易に自説を披露するのも立場上難しいかろうと勝手に納得した憶えがある。
ただ日本におけるユニバーサルデザインは、民間企業のみならず、こうして教育機関、官公庁にまで広く普及しているということでもあろう。現在でも政府、多くの自治体がユニバーサルデザインを地域の社会基盤として取り組んでいるが、極めて望ましいことだ。そして公僕たる政府、自治体は民間の意見を最大限取り入れ、公共性の高いユニバーサルデザインを実現しなければならないのだ。
こうした喜ばしい状況の一方で、社会基盤構築における供給側と利用側の関係性は、民間の罵声を一身に受け頭を下げる自治体の姿に象徴されるように、批評的且つ批判的な”一方通行”になりがちである。そして、この関係性がデザインプロセスにおいても、そのままスライドしてしまったのが日本のユニバーサルデザインの不幸ではないかと思うのである。更に高品質にならされた日本人は、この関係性をより精緻なものへ昇華させ、ともすれば”敵味方”にも類する状況下にもなった。
そしてこの関係性は、供給側の排他志向に繋がる。とりあえず利用側の意見は聞くものの、現場レベルでは多くの場合二律背反に悩まされる。「こっちをたてれば、あっちがたたず」というやつである。そして「最終決定は供給側で」ということになり、利用側に対してはプロセスの不透明性が高まっていく。
おそらくこうした関係性が若いデザイナーが敬遠する一つの要因になっているのではと思うのである。いやもちろんデザイナーは種々のニーズを完全に満たしたソリューションを生み出す責務がある。そして二律背反を乗り越えてこそイノベーションだと奮起させられている。しかし、互いに歩み寄る対話がなければ、いいモノ作りなどあり得ないというのが心情ではないか。
Juliaさんは「利用側を”ユーザー”ではなく”クリエイティブパートナー”として捉える必要がある」ともいう。観察手法の論議がされて久しいが、デザイナーからすればユーザーの無意識下のニーズを捉えてこそ能力を全うしたことになる。そうした中で、果たしてユーザーをクリエイティブパートナーとまで言い切れることが出来るのか私は未だ懐疑的でもある。ただ、少なくとも、今の一方的な関係性から抜け出さなければ、若いデザイナーをインクルードする魅力的なユニバーサルデザインはあり得ないのではないかとも思う。
そもそも私がユニバーサルデザインに興味を持ったきっかけは、耳の聞こえない友人がガラス越しで話(手話)をしていたり、目の見えない友人が携帯電話を信じられない速さで操作するなど、私の好奇心を大きく掻き立てられたところに端を発する。供給側は、利用側ニーズを必須の品質要件ではなく、発想を飛躍させるきっかけとして捉えれば、接し方も大きく変わってくるだろう。同時に利用側も、自分自身のニーズに固執することなく、全体俯瞰の上で供給者と一緒に頭を悩ませれば、よりプロセスに貢献したという充足感を味わえるだろう。こうした利用者と供給者の新たな関係の先に、これからのユニバーサルデザインの可能性も見えてくるはずだと思うのである。
by isoamu
| 2010-07-15 03:24
| ユニバーサルデザイン