2010年 06月 29日
ユニバーサルデザインと個の尊重
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”英語通訳を忘れないこと”
ユニバーサルデザイン(以下UD)が唱える”誰でも”というのは作り手の発想なんじゃないか、と思う。”ターゲットユーザーを広く”と置き換えると分かりやすいかもしれない。ひょっとするとこれは、UDが標榜する「個の尊重」とは異なる結果を招くのではないか。
UDは特性に関係なく社会参加を実現する魅力的な方法論だ。特殊な専用品ではなく、共用したソリューションで多種多様な人々の社会参加を実現する。共用であるがゆえ、効率化も図れ、顧客も企業も双方が幸せになれる。
ちょっと個人的な話をする。就学していたエグモントホイスコーレンは通常デンマーク語で授業が進められる。そしてインターナショナルスチューデントには英語通訳が提供されるのだが、不満が募っていた。冒頭の写真にもあるように頻繁に英語通訳は忘れられ、そしてほとんどの情報が断片化されていた。
本学期の中盤にスタディーツアーで海外(第二言語が英語)に出かけたとき、たまたま現地ガイドが英語で案内をする場面があった。そのツアー参加者全員が英語を聞いて理解するという環境だ(デン人の殆どは英語を理解する)。英語通訳が要らなくなるのと同時に、同じ言語環境下でリアルタイムに皆と全く同じ情報を得られる。これが僕にとっては、このコミュニティに参加する資格が与えられたような、もしくは、このコミュニティにおける自分の存在自体が認められたような、個の尊重にも繋がるこの上ない甘美な感覚だったのを覚えている。
そもそも我々インターナショナルスチューデントだけに提供される英語通訳はバリアフリーデザインで、そして英語はデンマーク人でも日本人でも理解できるUDだったわけだ。そしてこのUDが私にもたらしてくれたのは、その社会の一員としての権利、または個の存在が認められたという包容感、それらが渾然一体となった甘美な感覚、これこそ個の尊厳が尊重された社会。ここにUDが目指す社会の本質があるんじゃないか。単にアクセシビリティデザインとしてしまっては、あまりに即物的だ。
ただ一方で、母国語である日本語でのコミュニケーションも欠かせないものだった。英語がネイティブになれば問題ないのだが、英語と比べ情報量が格段に異なり、また日本語の方が自分の気持ちを的確に表現できる。というかそもそも日本語思考で僕の感情表現は成立しているからそうなる。共通語である英語環境と同時に日本語環境も私にとってはかけがえのないものだった。僕はUDである英語と、極めて排他的な専用言語である日本語、両方を必要とする存在なのだ。
さてデンマークの話に戻す。デンマークではノーマライゼーションの理念のもと1980年代に養護学校の隔離的傾向が批判され、障がい児の公立学校への編入が進んだ。親とすれば子供を普通の学校に通わせたいのは当然の気持ちだろう。しかし、普通の生徒と同じ教育を行うのにもあまりにも多くの困難があった。障がい児たちは大きな挫折感と精神的にも傷つき、結局、彼らは公立学校から抜け出し養護学校に戻っていったという。彼らは専用のソリューションを必要としたわけだ。また学校としては、高学力の生徒のニーズに応えるのも必要なことだろう。その後、学校の統廃合から公立学校に専門教育の機能を設置、クラス編成に柔軟性を持たせて障がい児をインクルードする取り組みがなされているようだが(※)、ここで言いたいのは、平等意識を無批判に受け入れ共用ソリューションを誰にでも提供するのは、逆に個を傷つけてしまうことがあるということだ。日本でも日本手話による教育を提供する聾者専門の学校が開校されたというが、個の尊重のためには、それぞれに適した環境を用意するのが妥当である場合もあるのだ。
UDは「個の尊重」を志向するが、そのためには同一ソリューションではいけない場合があることを改めて認識する必要がある。個別適正もUDの範疇だとする向きもあるが、私はそういう風に解釈を広げたくない。そもそも私たちが目指すべきものは、個が尊重される社会だ。UDはその一つの手段であり、そして理念と手段を混同すべきではない。そうしないと個別適正が必要な場合でも、共用ソリューションを前提に思考しかねない。更には重箱の隅をつつくような課題解決型志向に伴う閉塞感からも抜け出せそうにない。まずは個の尊重を基点として、そこからUDを選択するスタンスをとりたい。
(※)「デンマークの障害児教育とインクルージョン」には、障がい児をインクルージョンしていく方法論が記述されている。包括していくためにクラス編成自体に柔軟性を持たせるというものだが、デンマークの教育環境だからこそ実現しうるものだろう。ただ私はやはり一定の効率化を志向した枠の存在を肯定したい。これもまた人の本能だと思うから。
by isoamu
| 2010-06-29 05:24
| デンマーク