日本語OS
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ただうまく話せないときは大方”日本語が先に頭に浮かぶとき”だ。それから訳そうとすると必ずダメ。英語会話レッスンならば、他の生徒が話している時に考える余裕があるのだが、日常会話の中で瞬発的に英語で反応しようとすると、もうボロボロ。
日本語ならば、当然自分の想いの全てを表現することができる。それと同程度の英語を獲得していれば問題ないのだが、通常は習得した範囲の英語の語彙で表現する。そうすると、使うフレーズが決まってしまい、本当はもっと伝えたい微妙なニュアンスがあるのにーっと愕然とする。そして、もっと英語の表現力をつけたい思いから、ついつい自分の想いを的確に表現できる日本語を先に想起してから英語で表現しようとする。で、うまくいかない。この繰り返し。
こうして実のところ、日々、自分自身が日本語で思考していることに気づかされるわけだが、ひょっとしたら、そもそも”日本語を使ってしか思考出来ない”のではないかとも思う。要は、私の思考は、日本語というOS上で成り立っていて、実は自分自身の本当の思考、感覚を表現しているものではないかもしれない、とも思うわけだ。
例えば、デンマーク語にあって日本語にない語彙(その逆もしかり)があるように、その国の思考も言語によって構築されているのではないかと思う。誰だったか、幼い頃には、思考のベースとなる母国語をしっかりと習得させるべきと論じた学者がいたが、まさしくそれをこちらに来て感じている。
思考が日本語をベースとしているならば、より自分の思考、そして感覚を的確に表現するために、日本語というOSを着実にバージョンアップしていきたい。海外にいながら、不思議と日本語にも興味を惹かれている。