2010年 02月 18日
効率化による恩恵
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イギリスで数ヶ月間働いた後、ハラーホルデン・スパッツ症候群(知能低下や錐体外路症状を伴う神経軸索ジストロフィーの総称) になったという生徒がいる。症状の一つとして死期が早まることもあるようだが、どれほど残されているのか彼女は知らないし、知りたくもないという。当初は自分自身の病気を容認しきれず失意の中にあったが、ある日、両親から本校に入ることを強く進められた。最初はうまく馴染めないものの、半年以上を過ごし、今では多くの友人ができ、ここでの生活に満足しているという。
このストーリーは学内新聞(上写真)で紹介された。それにしても、こうした個人的かつシリアスな話を公開できるのは、本人の意志もさることながら、それを受け入れるこの環境に大きな要因があるように思う。ここでは何かしら特性を持っているのが”普通”であり、おそらく、だからこそ語りやすい状況にある。癲癇を持つ友人も、周囲に同じ症状を持っているかと聞くと、極めてフランクにその症状にまつわる様々なエピソードを話してくれるという。Medialineという科目では、学生自身がテーマを決めドキュメンタリー映画を作っているが、そのテーマの多くは、本校にいる生徒を対象とし下肢障がい、知的障がい等々の実体を紹介するものだ。それをお互いに取材し合って作品を作っている。そもそも多様であるということが、人をそうさせる。互いの特性を知ることにより、互いの配慮の仕方を知り、共存がうまくいく。
一方で、この学校の在り方自体がデンマークの中でMinorityだという現実がある(唯一といってもいいようだ)デンマークにも養護学校に相当する障がい者だけを集める施設・学校がある。同種の障がいに限定した方が、学校の運営側にとっては効率化と深化が図れる。一般的な学校でも同じことがいえるだろうし、そのために入試というものがある。当然これは会社においても同じことがいえる。本校含めホイスコーレンの運営費はデンマーク国民の高負担で支えられているわけだが、そのためには一定の経済発展がなければ、財源の確保など出来るはずもない。効率化と深化による恩恵で、Minorityを支えているわけだ。
あるべきは多様な特性が寄り添う社会だが、一方である特性に限定した”機能”が、多様な社会を成立させるためには必要だという現実がある。
by isoamu
| 2010-02-18 01:38
| デンマーク