住民の参加意識
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デンマークのサムソ島をご存じだろうか。10年かけて自然エネルギー供給100%を達成したことで日本でも紹介されている。因にサムソ島に向かうフェリー乗り場はここから歩いていける距離にあるが、同級生に行ったことがあるかと尋ねると「単に風車があるだけで、何もないわよ」と一言(^_^;
その成功の要因の一つに、住民自身による投資と地域エネルギー政策への参画が語られているが、そもそもそれを可能とする素養が住民自身に備わっていたんじゃないかと思う。以前、デンマークの点字ブロックが地域ごとに形状が異なることについて話した時、「住んでいる地域のことは、住んでいる私たちが決めるべき」との反応が返って来たが、日本だと、点字ブロックユーザーへの配慮から標準化の意識が強いが、ここでは地方自治に対する住民の参加意識が高く、その地域の利益の中で何が適切なのかが柔軟に語られているじゃないかと思う。
話は反れるけど、標準化って、決めるのも大変で、決めたら誰も変えたがらない。なかなか変えられないことを皆知っているから、益々妥協点を見つけるのが大変になるという負のスパイラルに陥りがち。一定水準を保証するには適切な方法だけれども、日本においてはその段階はとっくに過ぎてしまったんじゃないかな。標準化に限らず、日本って、全てにおいて”やめられない文化”だと思う。
住民の参加意識の話に戻すと、そもそもそれを可能としているのが、学校教育の中で”対話”が重視されていることのように思う。民主主義の構成する個人の最低限の能力開発が、学校教育の中で展開されている。本校でも授業の導入には、ほとんどの場合、教官はSubjectを与えるのみで、まずは学生にそれについて考えさせる。
デンマーク人ではないが、ハンガリー出身(その前はルーマニアにいたという)の卒業生と民主主義についての会話で(話の筋はよく覚えてないが)私が「How to compromise ?」という言葉を発したところ「Who am I ? 」「 What is your Philosophy and Spirit ? 」「まず自分自身の価値観を持つ。その上で互いの価値観をぶつけ合い(妥協ではなく)認め合うのが民主主義」等々、自身の価値観が次々と出る。考えれば、ルーマニア革命など考えざるを得ない状況下にあったというのも一因だとは思うが、そもそも欧州の連中は、その歴史の中で民主主義に対する価値観が形成されているのかもしれない。
関連情報
・自然エネルギーによる100%電力供給を達成したデンマーク・サムソ島
・低炭素社会に向けた社会的実験の実践報告(1)デンマークのサムソ島(サムセー島)、自然エネルギー100%への挑戦