住宅は自分のものか?
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先日、ホームペルパーの実習で独居老人の在宅介助に同行した。利用者は手すりがなければ移動できないほど足腰が弱っている。
寝室からトイレまでは玄関前の廊下を経由するのだが、そこに床と天井で固定する手すり(上図)、据え置きの手すり(上図)が複数台設置されている。その仰々しさはまるでジャングルジムのようで、壁固定の手すりが美しくさえ思えてくる。
しかし、どうしようもない。移動行為を放棄すれば廃用症候群を引き起こし、寝たきりは福祉費を圧迫する。利用者自身にとっても、排泄の全介助は人としての尊厳にも関わる問題だ。移動に逐次人的介助をつけるのも現実的ではない。例え、手すりに頼ったとしても、自らトイレに行けるのであれば、そうすべきなのだ。手すりで移動が可能なのは、また状態はいいといえる。
そもそも、こうした身体能力の変化を想定した住宅設計が必要なのだ。利用者の状態に応じて柔軟に、そして心地よい環境を維持できる設計が自宅で快適に過ごすためには必要だ。そしてライフステージによって住宅機能は変わるべき、との前提も持つべきだろう。健康自立期における家族構成の変化(単身、夫婦、子育て、子供の独立)、不意の事故及び老化に伴う障害依存期、そして臥床全面介護期、それそれのステージで必要な機能は変わる。
こうした問題意識から「スケルトンーインフィル」というあらかじめ内装を柔軟に変えられる設計が求められている。しかし、そうそう個人で改修コストを負担できるものではないだろう。不便ながらも我慢して住まうのが一般的だが、そうであるならば”人に合わせて住宅を変える”のではなく、”住宅に合わせて人が移り住む”のが現実的ではないか。私たちは単身から世帯を持つステージまでは比較的スムーズに住宅環境を変えられるが、特に、定年後から介護期を向かえるまでの移行がうまくいっていないように思う。長年住んだ住宅は本人の思い入れも含め、時に大きな負の要因となることもあり得る。住宅は、ライフステージに合わせた様々なタイプが用意され、人はライフステージに合わせて住宅を選択する。結果、社会全体のトータルコストも抑えられる。
2007年に自民党政務調査会は「200年住宅ビジョン」を発表した。某住宅メーカーも「200年住宅ビジョン」を掲げる。サスティナビリティの観点からも、住宅は世代を超えて長く使い続けていきたいものだ。とするならば、住宅は個人の好みに応じて変化させるのではなく、社会資産として長く使うべくライフステージに合わせてパターン化され、使い勝手に汎用性をもつものがいい。
バリアフリーで、サスティナビリティな住宅とは、そもそも”住宅は自分のものでない”という意識からスタートしなければならないのかもしれない。