茶の湯における露地論
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禅、シンプル生活のすすめ (知的生きかた文庫)
枡野 俊明 / 三笠書房
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建功寺住職、庭園デザイナー、多摩美術大学環境デザイン学科教授 枡野俊明氏の「茶の湯における露地(ろじ)論」について
作法というのは、その面倒さゆえ概ね形骸化が進むものだが、歴史の中で蓄積された知恵が凝縮されているはずで、改めて現代においてどのような効果があるのか思い巡らしてもいいように思う。昨今はエコに直結する知恵が日本文化にはあったのではというのが通説でもある。
茶の湯における露地というのは、茶室に入るまでの作法として、身も心も浄めるために設計されているという。「飛び石」の石並びは、足下に注意を向けさせ、時間をかけゆっくりと歩かせるために敢えて不規則にしている。その行為の中で自己を振り返えさせるのだという。更に、その並びは客人の視線を庭のビューポイントに誘導させることも仕込まれている。
日常生活から意識を放つための結界として、露地には「門」「段差」が幾つも用意された。特に段差による”跨ぐ”という行為は、場が変わるという意識を顕在化させるため神社仏閣に多く用いられている。また手水鉢(身を清めるための水を確保するための器)も設置されているが、露地の中のものは、時間をかけさせるため、敢えて客人をしゃがませる様式になっているという。
手水鉢は、燈籠などを再利用したものも多いが、石灯籠や多層塔などの笠の部分を逆さにして反りの美しさを見立てた手水鉢などは、マルセル・デュシャンの「泉」を彷彿とさせる。
禅とは「本来の自己と向き合うこと」 僧侶は修行によって自己を極限状態に追い込み、それにより自己認識にいたるが、露地は、それを簡易化し、そこで歩を進める過程の中で少しづつ日常から意識を放ち、浄められた空間に導くために設計されているとのだという。
話は変わるが、客人を迎える作法が仕込まれた道具もある。「箸」の端がなぜ割れていないのかというと、客人に”まっさらな状態で迎えている気持ち”を表現するためなのだという。また水打ち、盛り塩も客人を迎えるため、その場を浄めるための行為なのだそうだ。
現代からしてみれば、”茶を飲むだけ”にこれだけの経験が組み込まれているというのは驚きだが、しかし、千利休没後、秀吉は武士の茶として簡略化したものを古田織部に作らせたというのは然もありなん。形式だけ残ってもだめで、その背景を理解してこそ、何を残すべきか判断出来るというもの。