西村佳哲さん
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話の概略は、西村さんの「いい仕事って、なんだろうか」を参照頂きたいのだが、退社にあたり幾つか思うところがあった。
思えば、会社では常に言語化の圧力下にいたように思う。表現しなければ伝わらないのは当然だが、自分の思考自体もそうなってしまっているのでは、と感じていた。つまり、言語化(説明)できないのを良しとしない、言語化(説明)できるものだけで思考する志向。
先日、ある目の見えない方に「磯村さんの話は、”間”がいいですね」と褒めて?(おそらく)いただいた。視覚情報がない分、声の張り・トーン・間など内容以外の要素から話す相手を推察するのだという。私自身、大抵の場合、話す内容には気を配ってきたが”間”なんてものは意識したことがない。しかし”間”という言語化できないものが、自分自身を表現していた。
私は、西村さんの話に途中から消化不良が続き、最後は消化すること自体を放棄した。消化するというのは、自分の中で情報が構造化され、言語化できるということ。通常ならば、そうするよう努めるのだが、なにか言語化してしまった途端、話が陳腐なものになってしまう気がしてしまった。もしくは浅い理解で納得してしまうのでは、という怖さを感じた。
西村さんがたまたま見たTV番組で、植木等は齢60歳にして「自分はどう生きるべきか?」と告白したという。「いい仕事」なんて、そうそう答えがあるもんじゃない。自分の進むべき方向を決意した途端、別の悩みが頭をもたげる。
このまま、消化をあせらず、味わおうと思っている。