自由大学
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「自由大学」
「“大学の起源”は、11世紀イタリア ボローニャで学問を目指して集まった人たちから生まれた、自治組織(ギルド)だとされています。学びたいことを自ら探してきた教授に聞くことから始まったのです。「自由大学」は、“大学の起源” の学びのあり方を基に、誰もが自由に学び、自由に教え、自由に創ることができる新しい学校です。
〜中略〜
「固定の教授によって決められた講義に対して学生を募集する」という、現代の大学の形式ではなく、本当に教えたい という情熱をもった「教授」、学びたいと求める「学生」と、講義の企画や大学の運営に携わりたいという人が集まり、自由大学は形成されます。教える人と学ぶ人と創る人が入れ替わり、同時に学びあい、知る楽しさと考える面白さを、生活の中に人生の中に取り入れていくことが目的です。」
出典元:株式会社スクーリング・パッド「自由大学」を開校
そもそもの大学の起源に戻り、教師が生徒、生徒が教師になるというフラットな関係を模索する。講義の内容を一般から公募する「レクチャープランニングコンテスト」もその現れだ。
先日、その「レクチャープランニングコンテスト」に講義の企画を持ち込んだ(私は2回目のコンテスト)。多少の場慣れが功を奏したのかベストプランニング賞を頂き、今後、講義内容の精査・再構築を事務局と一緒に行うことになった。主催する黒崎さんからは、”更に感動する内容に”との激励を頂いたが、実はここに自由大学の大きなブレイクスルーポイントがあるように思う。
先日、授業を行った「シブヤ大学」の方法論も自由大学のそれと似ている。シブヤ大学も生徒が教える側になったり、授業自体も公募するなど「教える側と教わる側のフラットな関係」を模索している。先生の数が300人(6/25現在)を超えているのもその現れだろう。地域活性化を主目的として行政/企業/個人などから援助を受けながら運営を行う。よって授業料は基本的に無料。NPO法人として地域活性化が主たる目的だからこういった事業が成立するのだろうが、開校して3年、そろそろこの活動を持続維持していくために自主運営(単独での資金調達)を模索する時期に来ているようだ。
「自由大学」は株式会社スクーリングパッドが運営する。そして、講義を公募しつつ、講義毎に”授業料”をとって開催する。講義は全5回で受講料は28,000円から。1回5,000円以上になる。参加者にとっては結構な出費だろう。採算を得られる事業(講義)を前提としているからなのだが、”感動する内容”をという黒崎さんの思いはここに起因する。人は感動してこそ金を払う、だから講義も感動できる内容に仕立てる必要がある。しかし、教師、生徒、そして講義そのものも自由に入れ替わる柔軟さを残しつつ、利益が出せるレベルのものをどう品質保証するか、ここに自由大学の理念と課題が背反する。
ポイントは2つあるように思う。1つ目は感動は体験してこそ顕在化するもので、1回限りの短期講座では第三者によるその感動保証が出来ない。書籍であれば「有名人の書評」、映画であれば「全米ロングラン」「著名な監督採用」など表現する余地があるが、公募した講義の感動保証を、どう”事前”に訴求できるかだ。レクチャープランニングコンテストでも集客プランの提示を求められたが、ここはいずれの企画者も明確な答えを持ち得なかった。
2つ目は、講座募集を一般公募でやっているということ自体だ。感動の担保には有名人を講師に招聘するのだ手っ取り早いが、一般公募でそんなネットワークを持っている人は稀だろう。今後は「レクチャープランニングコンテスト」を数多くこなし質の高い講義企画を根気よく探し出し、かつ講義企画の精査を丁寧に導いていく必要がある。
私のレクチャープランは「これからのユニバーサルデザイン(不便さからの発見)」をテーマとし、1回目「音なし、音ありのプレゼン体験」、2回目「暗闇での食事&目の見えない人との絵画鑑賞」、3回目「音のない会議&耳の聞こえない人との音楽鑑賞」、4回目「視点を低くした街の散策(車いす使用)」、5回目に体験したことの振り返りと不便さからの可能性について一緒に考えるというものだ。
知っているものを組み合わせただけという稚拙な構成ではあるが「体験価値」は保証できる。無名の私にできる唯一の切り口だと思うがいかがだろう。あとはテーマはそのままに、学び方自体にもっと興味を惹く切り口を見出せるかどうか。まあ、事務局の方と相談しながら、思う存分に頭を捻ってみようか。