建築の価値
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大阪にはフンデルト・ヴァッサーが手がけたゴミ処理工場と下水汚泥集中処理センター(上写真)がある。2施設で3施設分もの建築費を要したという事だが、財政赤字を抱える大阪府では、税金の無駄遣いと揶揄されたいわくつきの建築だ。
施設周辺と屋上には植林がされている。さすがに周りの無機質な施設と比較すると違和感(YouTube参照)があるが、緑との相性はいいように思う。既にツタが一部の外壁を覆っていたが、覆われる事を想定したかのように違和感がない。すでに汚している(デコレーション)ともいえる外壁は、こうして緑に覆われれば覆われるほど馴染んでいくように思う。自然との共生をテーマに考えられているのも、そうなのかと頷ける。

通常のゴミ処理場であれば、こうして立ち寄ることもないだろうが(おそらく寄ろうとも思わない)、建築をみるという動機が足を向けさせた。そして、これだけの施設が必要な生活(ゴミを出している生活)にも思いがおよぶ。単なる機能としてのゴミ処理場が、ゴミに対する意識を醸成させるものにまで昇華されている、というのは少し買いかぶり過ぎだろうか。フンデルト・ヴァッサーはこの建築が市民のランドマークになり、そして親しい友人として自慢できるような存在にしたかったというが、ゴミ処理場に対する概念を大きく変えることに挑戦しているのだと思う。ウィーンにある彼の建築も、着工時には周囲環境との違和感を理由に反対する住民もいたようだが、今では観光客を誘致する重要建築物であり、そしてそこに住む人もその建築を愛し長く住み続けているという。
果たして、建築の価値というのは、いつ決まっていくものなのだろうか? もしくは決めていくべきものなのか? 短期であれば建築費の低コストに価値を感じるだろうが、その建築が100年、200年と存在することを考えるのであれば、未来のことを考えて建築は存在すべきなのではないか。この視点を入れずに、あのゴミ処理場を判断するのは果たして適切なのだろうか。無駄な税金を使われるのは御免被りたいが、こと建築においては未来の財産としての価値を見通すべきではないか。
ミサワホームでは木材を地産池消する「100年住宅」を企画しているという。木造であっても地元の木材を使えば、ゆうに100年以上もつのだそうだ。資源を無駄にしないためにも100年維持できることは大切だが、それに加えて長い年月をかけて、その土地にどのような価値をもたらすのか、そういうことまで考えてぬいて建築の価値を判断したい。
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