足りないからこそ、広がること
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私の講習では、耳の聞こえないことを体験してもらうため、途中で声を出さないプレゼンを行います。更に最近では、目の見えないことも体験してもらうため、照明を落として真っ暗な中でのプレゼンも行うようになりました。
以前、そのプレゼン方法と文楽とに共通点を感じた、という方がいらっしゃいました。文楽は、人形とセリフが別々の人物によって演じられます。人形1体に対して3人の人形師、セリフは登場人物すべてを1人の太夫、そして演出音も1人の三味線師が担います。これら3つの要素が三位一体で物語が進行していくのですが、それぞれ単独でも一つの芸術として完成されていて、例えば目を閉じ太夫と三味線の音だけでも十分に楽しめるのだそうです。ビジュアルと音とが一体になっての芸術なのだけれども、それぞれ単独でも楽しめる。そこが私の声を出さないプレゼン(ビジュアルだけ)、真っ暗な中でのプレゼン(音声だけ)に状況が似ていると思われたようです。
さて、人形師、太夫、三味線 それぞれの芸は、一生尽くしても足りない粋のもので、還暦をとうに過ぎた80歳代の太夫が現役で活躍しているような世界です。太夫など、1人の人間で演じているとは思えないほど子供、老人、男女、また性格の違いをよく表現しているなど感心します。三味線師も、BGMから効果音までをたった三本の弦でよく演じてきっていいるなど感じます。
昨年GWに観てきたオペラと比べても、決して遜色のないものにも思えます。オペラはフルオーケストラを使い圧倒的な迫力で演出されますが、文楽は太夫と三味線という最小限の構成にも関わらず豊かな味わいを感じるのは、シンプルだからこそ伝えたい事がクリアになっているということかもしれません。
また人形の動きもなかなか巧みです。3人で1つの人形を演じるのは相当に息がいっていないと出来ないものでしょうが、とても滑らかな動きが演じられています。文楽の人形使いの動きを、人間型ロボットの動きの参考にしようとする活動をあるようですが、本物の人間の動きをセンシングするより、(人間の動きの特徴を効果的に演出している)文楽から学んだほうが近道だというのです。人間が直接演じるより、人間ではない人形だからこそ、いかに効果的に人間らしさを表現するかの試行錯誤があったんでしょうね。
こうして考えると、表現手段というのは多少足りない方が効果的なことがあるように思います。少ない手段の中だからこそ、様々な工夫の必要性が生じ、結果、新たな可能性が広がってくるのだと思います。
以前、ラジオの生番組に出演した時、音声メディアの可能性についてこう答えたことがあります。音声メディアというのはリスナーの頭の中でイメージが補完されて成立するもの。だとすれば、それを逆手にとって普通はありえない形容詞と名詞の組み合わせをしてみれはどうだろうか? 例えば「おいしい生活」「やわらかな雨」「温かい雪」「冷たい火」など、映像では決して表現できないイメージを作り出せるはず。映像がないから表現できないのではなく、映像という縛りがないことが可能性を生み出す。足りないからこそ、豊かに感じることってあるように思います。
短歌の五・七・五・七・七も限られた条件で表現するからこそ、聴く側がイメージを膨らませる余地が生まれ、豊かな味わいがでてくるのかもしれません。「古池や蛙飛びこむ水の音」 これを映像化すると途端に安っぽくなってしまうように思いませんか。
足りないからこそ、広がりがでてくるものって多いように思います。



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