使いやすさの弊害
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カミさんからもらったモンブラン。毎日、内ポケットに挿して持ち歩いているが、実は使いにくい(内緒)。滑る、重いなどがその主な理由だが、ただ物としてはすごく気に入っていて、逆にペンに手を馴染ませるように使っている。そして、ペンを使っている自分の手の所作にも気を使うようになってきた。正しく、そして美しい持ち方でペンを持とうという美意識が、自然と自分の中に醸成されているのがわかる。
以前は私自身もそうであったが、普段使うペンは一本100円程度のもの。インクがなくなったらペンごと使い捨てにしていた。このモンブランは、インクがなくなったら当然替芯は購入しなくてはならないが、おそらく本体は一生使い続けるのだと思う。
こうして考えると、使いやすさ、そして手軽さを追い求めるのは本当にいいのだろうかとも思えてくる。通常の商品開発であれば、ユーザー観察(大抵”使いにくさ”が対象となる)から気づきを得て、様々な改良を施していくのが通例だが、一方で、物に対する意識が軽薄になってしまうのではないかと危惧もする。当然、本当に困っている人にとっては、最低限”使用できるレベル”にまで配慮されてしかるべきだが、使用できるレベルであれば、あとはモノとしてどうあるべきかという思考で展開してはどうかと思う。
単に問題を解決するだけでなく、長期的な視点に立って、人にとって何が豊かで、幸せなのかを考えた上でものづくりが出来れば、その商品は、長く、ロングライフなものになるのは間違いのないことだ。
「たとえば、敷居。この廊下と座敷の間に生まれる段差には、違った意味が隠されています。~中略~ ある研究者のレポートによれば、まったく段差のない家で育った子供と、日本的家屋で育った子供の歩行時や走行時の転倒頻度を調べた結果、明らかに日本家屋で育った子どもの転倒率が低かったというのです。その要因が、廊下と座敷の段差、敷居にあると。」
出展元:「UD楽」 細山雅一著 出版元:UDジャパン
こうした影響まで考え抜いて、じっくりとモノづくりをしたい。通常の商品開発に対する距離感はかなりなものだが、こうありたいという想いは根っこの所に持ち続けていたいと思う。



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